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はん七 坂東彦三郎

鈴木 春信
スズキ ハルノブ
Suzuki Harunobu

はん七 坂東彦三郎

分 類:版画
制作年:宝暦10年(1760)
技 法:細判紅摺絵
寸 法:31.0x14.0cm

 宝暦10年(1760)2月6日の夜、大火があり、中村座と市村座も焼失した。両座とも直ちに普請にかかり、5月に新築完成。市村座は、6月4日(役割番付による)から「曾我万年柱」を上演した。その狂言に取材した春信の細判紅摺絵4点が現在判明する春信作品の上限である。
 図は、大福帳を左手に抱え、右手に筆を持ってポーズを取る丁稚(若い手代?)姿の二代目坂東彦三郎である。上部の鶴の丸は彦三郎の紋で、「薪水」は彦三郎の俳号である。キッとした表情で斜め上方を見すえる彦三郎の表情は豊かで個性的、とてもデビューとは思えない出来を示している。
 役割番付によると、狂言の二番目に「すけ笠売半七本名ぜんじ坊 坂東彦三郎」とあるので、それに該当する図と考証できる。二番目には浄瑠璃「三勝半七 逢夜女夫星」も組み込まれており、「姉川大吉 坂東彦三郎 相つとめ申候」と書かれているので、彦三郎は、姉川大吉の笠屋三勝を相手に所作事を演じていたことになる。
 その浄瑠璃正本の上巻の表紙絵をみると、彦三郎は大福帳を左肩にかついだ姿となっている。本図と相通じるといえるであろう。
 春信は、彦三郎の半七をもう1図描いている。それは、「かさうり半七 坂東彦三郎」とあるとおり笠売姿の半七で、「真白笠乞ふひるかほのやとり哉」と画中に句賛が記されている。版元は、2図とも「鈴木」。
(『青春の浮世絵師 鈴木春信』より)
 
 春信が浮世絵界にデビューしたのは、宝暦10年(1760)頃と考えられている。その年の6月市村座の「曽我万年柱」に取材した役者絵で、菅笠半七に扮した坂東彦三郎を、その家紋と「さそはれて 風のあぢ見ん すすきはら」の句と共に描き出した作品である。
 明和期(1764〜72)に入り、錦絵が創始された後にはほとんど役者絵を描かず、「われは大和絵師也、何ぞや河原者の形を画にたへん」といったことが伝えられる春信であったが、当初は同時期に活躍していた鳥居清満(1735〜85)の役者絵にならいながら、このような細判紅摺の役者絵を多く手掛けていたらしい。「鈴木板」とある版元は、この頃の作品に限って認められるが、近年ポストン美術館に所蔵される『絵本わかみどり』[宝暦11年(1761)刊]の奥村に「江戸橋本町二丁目 鈴木伊兵衛開板」とあることが浅野秀剛氏によって確認されたことから、この版元が初期の春信作品の出版を担っていたものと推定されている。
(『初期浮世絵展―版の力・筆の力』より)