恩地孝四郎(1891-1955)は東京府南豊島郡(現在の新宿区)の生まれ。東京美術学校在学中、竹久夢二との交流から版の世界に導かれる。大正3年(1914)から翌年にかけて田中恭吉・藤森静雄とともに版画誌『月映』を編み、心象表現から一気に抽象造形へと飛躍。有機的な形態の浮遊する詩的な作風で版画の新たな可能性を拓き、以来戦後に至るまで日本の創作版画界の尖端に立ち続けた。

本図は、紀元2600年奉祝美術展および日本版画協会第9回展(いずれも昭和15年)の出品作。恩地は昭和14年(1939)に陸軍省嘱託として中国大陸を巡っており、その時の印象に基づく。壁面と廊下、天井からなる白亜の空間に、中国服を来た女性の後姿がわずかに見えるという構成が鮮烈である。具体的なモチーフを扱いながら構図は極めて作為的であり、抽象的な試みとも言えよう。作品が難解だとして攻撃されることの多かった恩地の、ぎりぎりの模索を伝えて興味深い。