1. 吉田博 《駒ケ岳山頂より 日本南アルプス集》
吉田博も旅の画家、とりわけ山の画家として知られます。幼時から好んだ山歩きが長じて登山となり、夏場は山にあって油絵と木版下絵を描き、秋から春にかけてはアトリエで木版制作に励む日々を長く続けました。本作でも、わきおこっては消える雲や、雲海から頭をのぞかせる富士山の頂が、登山家ならではの視点で描かれています。博にとって、旅先で出会う陽光や雲の一瞬の姿を定着することは、とても重要なことでした。
(常設展「行楽と旅」 2021年5月)
3.歌川広重 《上総天神山海岸より富嶽遠望図》
様々な書画家たちによる100枚の書画を収めた画帖に貼り込まれていたという一図です。上総国海良村(現在の富津市)から海越しに眺める富士の景です。広重は嘉永5年に房総を旅しており、「不二三十六景」のシリーズ(中判錦絵、嘉永5年)にも「上総国天神山海岸」と題される図があります。
(常設展「富士の絶景」 2021年6月/「特集 歌川広重」 2023年10月)
4.横山崋山 《天橋立・富士三保松原図屏風》(左隻のみ)
横山崋山は、曾我蕭白に傾倒し、岸駒に入門、呉春に私淑するなど幅広い画風をものにして活躍した江戸時代後期の京都の画家。本図は清見寺と街道を描き、駿河湾越しに臨む富士の絶景です。華山が東海道を東へ旅する途中に清見潟で月の出を見て感激し描いた《清見潟富士図》を、大きく屏風絵にし、蕭白晩年の画風にならって描かれました。右端には「天橋臨眺真景」と記され、一見すると松原が連続して海が広がっているようでありながら、実は別の景という仕掛けが仕組まれているようです。号ではなく「暉三」という本名を記しているのも珍しい、華山の代表作です。
(常設展「富士の絶景」 2021年6月)
5.橋本関雪 《水城暮雨図》
橋本関雪は明石藩の儒者だった家に生まれ、中国の古典や風物を題材とした作品で早くから官展(政府主催の展覧会)を代表する西の大家となりました。本作は大正8年第1回帝展で審査員をつとめた関雪が出品した「遊踪四題」4幅のうち「水市の細雨」とされていた1幅で、展覧会後に改題されました。他にはボストン美術館に1幅所蔵が確認できます。関雪は幼少から中国文化に親しみ、中国への旅は30歳以降30数回に及びました。運河のあるこの街並みは、現地でのスケッチも多数残る水の都蘇州の名勝、瑞光塔、盤門、呉門橋の盤門三景を合成したもので、深遠なる歴史を雨に霞むノスタルジックな光景に重ねたかのようです。
(常設展「近代京都画壇の俊英たち」 2022年4月)
6.冷泉為恭 《枕草子図》
幕末期にあって、平安・鎌倉時代の古典的大和絵の復興を目指そうとしたいわゆる「復古大和絵派」の代表的画家で、古大和絵の模写も生涯精力的に続けた冷泉為恭(1823〜64)が、その本領を発揮した、精緻な大作である。本図の一部に似た図柄を持つ別の双幅の作品(岩国吉川家蔵)には、出典の文章を為恭自身が記した巻物が付属しており、本図もそれと同じ場面、『枕草子』第二十段(三巻本)を題材としたものと考えられる。清涼殿の弘徽殿の高欄の所に据えた青磁の瓶に桜の花の枝が挿されており、そこへ参内する大納言藤原伊周、そして天皇や中宮、女房たちも交えて思い起こされる古歌を詠む様子が段階的に描かれている。
落款には為恭の当時の官位が示されており、三十代後半の充実期という試作時期の目安を得ることができる。
(『千葉市美術館所蔵作品選』1995年刊 p.243)
7.歌川豊春 《浮絵浪花天満天神夜祭之図》
歌川派の祖・豊春が描いた天満天神祭の図。大坂・堂島川で行われた祭の船渡御の様子を、星空と水面とのコントラストを利かせ、印象的に仕上げています。線遠近法を用いて奥行きを強調したこのような風景画は「浮絵」と称され人気を博しました。
本図の題材は大坂ですが、豊春は江戸名所を題材とした浮絵も多く制作しており、洋風画家たちの銅版画による江戸名所図に影響を与えました。
(常設展「特集 亜欧堂田善とその時代―異国の風」 2023年1月)
15.平塚運一 《千葉登戸風景》
平塚運一は、日本近代を代表する創作版画家。松江市に生まれ、同地で洋画講習会を開いた石井柏亭との出会いから美術家を志し、大正4年(1915)に上京。柏亭から彫師・伊上凡骨を紹介されて研鑽し、大正10年の日本創作版画協会第3回展で初入選。以後も入選を重ね、同12年の第5回展では京都府立図書館での開催に尽力し、第6回展からは会員となるなど、同会を支えました。また後身の日本版画協会が設立される際には常務委員となり、第1回展から会員として参加、重厚な彫りと明快な摺りを持ち味に、中心的な存在として活躍しています。
本作は、日本創作版画協会第4回展の入選作と推定される作品。登戸は千葉市美術館に程近いエリアですが、当時はこのような起伏のある景観が見られたものか、詳しいことはわかっていません。実に表情豊かな刀跡―シャープな線や柔らかな線、点やボカシなど―を駆使しながらモノクロの風景を構成するのは、この時期の特徴です。
(常設展「特集 日本創作版画協会の作家たちⅡ」2024年6月)
16.森田恒友 《犬吠風景(南総風景)》
森田恒友は日本画家として知られますが、山本鼎や石井柏亭とともに雑誌『方寸』を創刊し、コマ絵を数多く手がけるなど、明治期末から大正期にかけて多くの版の絵を残しています。本作で試みられたジンク凸版も、盟友山本に教わったもの。裏面に二種のタイトルが記されますが、文献から犬吠の可能性が高く、であれば屏風ヶ浦の景色でしょうか。モノクロームの濃密な表現に、デッサンの名手だった恒友の腕が光ります。恒友の版画としては最後の作とされています。
(常設展「山本鼎とその周辺 ―創作版画のはじまり」 2023年3月)
21. 三上誠 《作品64-6》
作者は1919年大阪市生まれ。後に福井市に移った。40年京都市立絵画専門学校日本画科入学。44年卒業し副手となる。48年革新的な日本画を目指すグループが結成され、翌年三上の提唱で「パン・リアル美術協会」と命名。宣言文には日本画のアナクロニズムに対する強烈な駁論が盛り込まれている。メンバーは大野秀隆、下村良之介、星野真吾、不動茂弥など11名。51年パン・リアル美術協会会長に就任。52年肺結核に罹り肋骨11本を取る手術を受ける。療養のため福井に帰郷。以後定住。以降生涯結核と戦いながらパン・リアル展を主な舞台に活躍。72年逝去。享年52歳。
パン・リアル以降の作品はキュビスムを思わせる分析的な絵画、それに社会的リアリズムを加味した作風、更にミロ風の曖昧な形状が登場する作品と展開するが、50年代後半よりコラージュによる作品が頻繁に姿をあらわし始めた。それらの展開はパン・リアルの創立宣言文に明らかなようにその微温的体質から素材までを含む日本画全体のあり方を再検討する模索の過程に他ならない。病に悩む作者は初期より風景の上に解析された人体が配置される作品を展開させてきたが、この作品を制作した時期の作品はその捨象の度合いがかなり進んだものである。
(『千葉市美術館所蔵作品選』 1995年刊 p.261)
22.阿部展也 《ROSIGNANO SOLVAY》
新潟県に生まれる。本名、芳文。1929年京北中学校を中退。絵画と写真を独学する。32年第2回独立美術協会展に初入選。同会を中心に活動する中で、次第にシュルレアリスムへの関心を示す。33年1944年協会を結成(35年までに展覧会を4回開催)。37年瀧口修造と共に詩画集『妖精の距離』を刊行。39年独立美術協会を脱退し、美術文化協会結成(52年脱退)。41年陸軍報道班員としてフィリピンへ派遣される。46年復員。戦地での体験を描くことから始まった戦後の制作は50年代半ばに抽象ヘ移行。51年第1回サンパウロ・ビエンナーレに出品。57年以降は海外で個展を開催する他、国際会議などへ積極的に参加。59年ローマに移住。74年神奈川県立近代美術館で歿後初めての回顧展。
阿部展也が1949年に発表した「飢え」は、極限の人間を戦前からのシュルレアリスムの視点を基に描かれていた。その後人間の姿は、次第に解体され、50年代半ばには四角による抽象構成となっている。作風は転じたものの、彼にとっては人間の精神を描くための必要な変化だった。本作品はその後60年から67年にかけて制作された作品群のひとつ。それまでの図像を更に定着させ、マティエールをイメージそのものにするために、この時期はエンコスティックを素材として用いている。植物細胞を思わせる濃密な世界で、秩序ある構成ながらも全体としては混沌といた印象を与えることで人間の精神の表現となった。この後、阿部の作品はアクリル絵具を用いた明快な抽象へ移行したが、未完のまま終わった。
(『千葉市美術館所蔵作品選』 1995年刊 p.260)
23・24.八木正 《(作品名不詳)》、《(無題)》
京都市に生まれる。1975年京都市立芸術大学美術学部彫刻科に入学。在学中より木を素材とした作品を学外の展覧会で発表。78年同校構想設計教室の非常勤講師となった小清水漸と知り合う。81年京都芸大作品展で市長賞受賞。同年専攻科修了。画廊で開催した個展では「もの」が自律性を帯び、「作品」として成立する過程を検証し続けた。これは、60年代後半から見られる近代彫刻以後の造形思考に対する再検証を受け継いでいる。歿後、83年埼玉県立近代美術館での「木のかたちとエスプリ」に出品。同年、伊奈ギャラリー2で「八木正遺作展ー板の構成による」、京都芸術短期大学ギャラリー楽で「八木正遺作展ー木の表情」。97年千葉市美術館の「超克するかたち 彫刻と立体」に出品。2007年京都国立近代美術館ほかで「文承根+八木正 1973-83の仕事」。14年京都造形芸術大学ギャルリ・オープンでの「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」に出品。
(『千葉市美術館 所蔵作品100選』 2015年 p.93)
28.村上友晴 《無題》
村上友晴の《無題》を初めて目にした方は、何も描かれていないように見える黒い絵画を前にして、戸惑いを覚えるかもしれません。現代美術の世界では、1960年代を中心に、このように単色の色の面だけから構成される極めてシンプルな抽象絵画、いわゆるモノクローム絵画(単色絵画)が描かれた時期がありました。村上もすでに60年代から、木炭粉を混ぜた黒色の油絵具を、ナイフでごく少量ずつキャンヴァスに塗り重ねていく独自の単色絵画を制作していました。
村上の絵画、というよりその制作態度が大きく変わるのは、彼が北海道のトラピスト修道院である修道士と出会い、1979年、洗礼を受けた頃からです。ルオーと同じくカトリック教徒となった村上の黒の画面は、洗礼後、宗教的意味合いを強く帯びるようになり、作品の題名も聖書から取られることが多くなりました。キャンヴァスにひたすら絵具を置き続け、膨大な時間をかけておそろしく繊細な表面を作りあげていく単調な作業は、もはや何かを表現することよりも、「神への祈り」に近い行為へと変質します。それは瞑想的な黒い絵画だけでなく、《ピエタ》のような白いドローイングでも同じです。白い絵具で描かれた長方形の上に、硬質の鉛筆で無数の細い線を引きながら、少しずつ絵具を削り落としていくことで作られるこの作品からも、画家の信仰の誠実さが感じらないでしょうか。朝教会に行って祈りを捧げ、1日制作に没頭し、夕方の祈りのあとに就寝するという修道士のような生活。そのなかで生まれる村上の絵画の黒い表面は、漆黒の深い闇でありながら、光を発しているようにさえ感じられます。その極めて繊細な表面の美しさを、じっくりとご覧ください。
(所蔵作品展「現代美術と祈り」 2013年10月1日〜11月17日)
29・30.百瀬寿 《NE. Green, Violet, Blue and Red》、《NE. Blue, Red, Green and Black》
作者は1944年札幌生れ。67年北海道教育大学旭川分校卒業後68年岩手大学専攻科修了。エッチングとともに油彩画を手掛けるが、68年以降は主にセリグラフを制作。81年からネコプリント、85年からカンヴァスにアクリル、岩彩、紙などの混合技法の作品を制作。
77年に第2回世界版画展(サンフランシスコ近代美術館)で買上賞受賞、86年には日仏現代美術展(東京都美術館)で大賞受賞など活躍が著しい。この作品は正方形の画面にアクリル絵具で4色の正方形を描き、一旦その上にネパール製の手漉紙が貼付けられ、それをさらにそぎ落とす、その削ぎかたによって部分部分の濃度を変えるという作業によって制作されている。紙という素材とヴィヴィットな色彩が調和した美しい絵画である。
(『千葉市美術館所蔵作品選』 1995年刊 p.270)
38.岡﨑乾二郎 《木の根元に小さな動物がいて、蜜に夢中になっていた旅人のいる大樹を齧りつづけている。大樹はやがて谷底に転げおち、旅人はあえなく生を終えることになっている。》
作者は1957年東京生れ。77年多摩美術大学中退。79年Bゼミ修了。ドリッピングに見える絵具の滴りは実は型紙を使って塗られているもの。ある基本形を拡大縮小したり、転倒、分解したりしながらカンヴァスの他の位置に転写したりすることで相互に関係づいている。つまりあるパターンが複数の画面に所属しながらそれぞれの画面が唯一の画面としても成立し、1枚の抽象絵画となっている。この冗長なタイトルも同じ考えに基づくが、それは作者が彫刻を制作する際に空間をいくつかの平面で分断し、再構成する方法と共通している。
(『千葉市美術館所蔵作品選』 1995年刊 p.273)
40.比田井南谷 《作品 1 (電のヴァリエーション)》
比田井南谷は、書家である父・天来(1872-1939)のもとで書を学びました。第二次世界大戦中、疎開先の長野で試行錯誤を重ねていた南谷は、父が残した「行き詰まったら古に還れ」という言葉を思い出します。そして、終戦直後、中国の古典『古籀彙編』にあった「電」の古代文字をモチーフに、《作品1(電のヴァリエーション)》を制作しました。「心線作品」と名付けられたシリーズの第一作目にあたり、文字と線のあいだのような象が、画面をのびのびと走っています。新たなる書への機が熟するなか、伝統的な書を打ち破ったはじめての作品として位置付けられています。
(常設展「特集 書 ─第二のジャポニスム」 2022年1月) 2015年)
41.村井正誠 《歴程》
村井は1905年現岐阜県大垣市生まれ。25年上京し文化学院大学部で有島生馬、石井柏亭に師事。27年第14回二科展に「新宮風景」が入選。28年からフランスに遊び32年に帰国。37年自由美術家協会の結成に参加。戦後の50年には山口薫らと同会を脱退しモダンアート協会を結成。欧州から帰国してから間もなく彼が描き始めたのは当時流行の情熱的筆致によるフォーヴ風の作品でもシュルレアリズム風の作品でもなく当時日本ではほとんど知られていないオランダ新造形主義の巨匠モンドリアンを思わせる幾何学的な構成の作品であった。戦後の作品では線や色面がより躍動的となり、それらのかたちをかりた人間の姿が描き込まれている。
白と緑で塗り分けられた横長の画面の上を、漢字のできそこないのような奇妙なかたちが踊っている。何という不可解なかたちだろう。横長の画面は作者村井正誠の辿ってきた時間の流れであり、そのうえ絡み合う線は左から順次作者の人生のエポックが形状化されたものである。即ち彼の「歴程」である。彼が画家として辿った道は平穏ではなく、個人個人の思惑が入り乱れ集合離散を繰り返す昭和初期の画壇のまっただ中でわりを喰う立場に立たされることが多かった。朋友に欺かれたことさえあった。この作品は、線や色面のかたちをとっているが、戦中戦後の混乱期に画壇という閉鎖社会の中で演じされた仲間たちによる悲喜こもごもの立ち回り劇が後になって自分自身のことを含んで客観視できるようになったものだろう。この作品の軽快な色彩とユーモラスな線のかたちは作者の生きた時代とその80年余の人生に刻みつけられた模様なのである。
(『千葉市美術館所蔵作品選』 1995年刊 p.259)