企画展
千葉市美術館の所蔵作品展示

現代日本の彫刻 

木を素材とした作品を中心に

2009年9月14日[月] – 10月21日[水]

小清水 漸《デウカリオンの机》1983(昭和58)年 千葉市美術館蔵
会場

1階 さや堂ホール

会期

2009年9月14日[月] – 10月21日[水]

※この展覧会は終了しました

休館日

10月5日[月]

観覧料

無料

主催
千葉市美術館

東京国立博物館彫刻室の収蔵品のなかで、製作された時代が最も古いとされている飛鳥時代の《菩薩立像》は木造彩色である。朝鮮半島に由来すると思われるその表情、頭部と胴体の稚拙なバランスは、日本に仏教が伝わったころの仏像のすがたを今に伝えている。

 飛鳥時代以降、と言ってはおおげさだが、たしかに木は彫刻の素材として加工が簡便なこともあり、洋の東西を問わず古くから用いられてきた。長い間、彫刻の素材は木、石、そして石膏やブロンズ(青銅)といった素材が主流だったが、20世紀に入ると鉄やガラス、さらにはガラスやプラスチックなどが導入されるようになった。この新しい素材の導入と、いわゆる「抽象彫刻」のひろがりは連動している。作り手の発想に応えるうえでも、また造形の「新しさ」を伝えるためにも、昔から使われていた素材では具合が悪かったのだ。

 このようにして、木は相対的に彫刻の素材に占める割合が小さくなっていった。しかし結果的に、彫刻家たちは素材としての木に「過去の記憶」という、工業素材が持ち得ない魅力を新たに発見することができた。今回の出品作品の作家たちは、共にこの魅力について充分認識した上で制作に向かっている。

 植木茂(うえき しげる 1913 – 84)はもともと油彩画を制作していたが、旅先の奈良で出会った仏像に触発されて抽象彫刻を目指すようになった。これは1930年代のことであり、わが国では先駆的な存在だった。以後、江戸時代の木喰仏などを参考にしながら、木という素材の魅力とフォルム(かたち)が一体化した造形を終生心がけた。

 豊福知徳(とよふく とものり 1925生)は20代のはじめ、木彫家・富永朝堂(とみなが ちょうどう 1897-1987)に学んだ。これは、明治時代に活躍した髙村光雲(たかむら こううん 1852-1934)の流れに位置することになる。単純化された人間像によって国内で高い評価を得ていた。その後、60年代に移り住んだイタリアでの生活から、地中海世界と東洋を結ぶ古代的な造形へと向かっている。

 江口週(えぐち しゅう 1932生)は日本の戦後彫刻の中でも、内容・物理的にスケールの大きな木彫の作風で知られている。人間と木が共生していた古代への思いは、出世作とでも言うべき《死者のふね》(1961)の構想の一端が、戦後千葉市内で発見された大賀蓮とともに出土した丸木船であったことからもあきらかである。

 沈 文燮(シム ムンスン 1942生)は現在、ヨーロッパでも作品の発表が多いが、1970年代はじめからサトウ画廊をはじめとして日本国内で発表している。代表的な『木神』という作品群は、韓国の古い民家が使っていた建築材を用い、東アジアの人間が積み重ねた暮らしの記憶を呼び起こす。しかし、それは単なる回顧に止まっていない。作者は常に、「水平と垂直」という立体造形にとって重要なふたつの要素がいかにかかわっているか、ということを強く意識している。

小清水 漸(こしみず すすむ 1944生)は1960年代末、美術作品のあり方に根本的な問いかけを続けていた。具体的には、「木を刻む」「鉄を磨く」という行為によって作者の手が加えられた物質を、画廊や美術館で発表した。これは、人間中心の思考に対する反省だった。彼はこの経験を土台として、過去の造形の記憶が蓄積した素材である木と、神話や伝統の世界を融合した作品を制作している。今回展示している作品の名に付された「デウカリオン」とは、ギリシャ神話に登場する箱船を造った人物のことである。

八木 正(やぎ ただし 1956 – 83)は先行する世代 —たとえば、今回の展示では沈や小清水— を受け継いだ存在である。第2次世界大戦後、近代彫刻(いわゆる、ロダン以降)が獲得したさまざまな造形思考は、1960年代後半から70年代前半にかけて解体された。八木はこの再建に取り組み、道半ばで歿した。八木の作品は一見単純な構造であるが、使われている素材(例えば、ベンガラ)などは、かつて日本人の生活の中にはよく見かけた素材である。つまり、何気ないくらしの中からもう一度美術を作ろうとした意識をうかがうことができる。

 今日、美術の世界は今回展示した作品から、更なるひろがりを示しているように見える。しかし、展示した作品はいずれも代表作・話題作ばかりであり、現在でも作品の魅力を失ってはいない。むしろ、多様な作品が生み出されている今日こそ、「美術作品の制作」の根拠を問うたこれらの先人たちの作品に接するべきだろう。

Search